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会津若松 いまむかし(5) - 矢嶋壯吉Mail

2024/04/25 (Thu) 16:02:58

青山君からのメール 4/21(日)03:00

 池辺君、阿部さん、矢嶋君、楢戸君
池辺君の「ある町の百年 会津若松」、深い感動をもって拝読しました。池辺君は、今度わざわざパソコンに打ち込んでくれたのですね。ありがとうございました。
すでに阿部さん、矢嶋君、楢戸君が感想を寄せています。
私も以下書いてみます。
会津戦争から100年後、今からいえば56年前(1968年)に書かれた池辺君の文章は、今読んでも全く色褪せていません。丹念な事前調査、町を歩き回った印象、多くの人からの取材を踏まえ、とかく白虎隊一色になりがちな会津若松を多角的に捉え(最後の、漆器職人の話は印象的)、それを抑制的な筆致でまとめ上げていることによる、と思いました。やはり文章の専門家は違う、と感じました。
以下、それに刺激されて、池辺君が見た56年前と今回私がみた会津若松とで、異なっている点をいくつか、書いてみます。
● 会津若松は白虎隊一辺倒か
会津若松が白虎隊の町であることに変わりがありません。しかし、池辺君が書いているような、過度に白虎隊を観光の売りにしている、という印象を、私は今回受けませんでした。
池辺君が面白おかしく紹介している「飯盛山の土産物屋お抱えの観光ガイド」は見当たりませんでした。私たちも東山温泉に泊まりましたが、「売りものの芸者の白虎隊踊り」もなく、町を走るタクシーも「白虎隊タクシー」という名を冠してはいなかった、ように思います。それどころか、私たちが事前に買いたいと思って訪ねた「白虎隊最中」の店には、休業中という張り紙があり、閉店しているようでした。
白虎隊は、いまや遠い過去の歴史の一齣になったのかもしれません。

● 白虎隊士はなぜ自刃したか
これについては、長らく、飯盛山から見て城の方向に火の手が上がり、それを見て、鶴ヶ城が落城したと思い、もはやこれまでと自刃した、という説(落城誤認説)が有力でした。
文部省唱歌「白虎隊の歌」(明治37年)の三番
   残るは僅か十六士 一度後ろに立ち帰り
   主君の最後に会はばやと 飯盛山に攀じ登り
   見れば早くも城落ちて 焔は天を焦がしたり

や、今も歌われる「白虎隊」の歌の中の漢詩(作者は旧会津中学校の教師佐原盛純)の、

   南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
   痛哭涙を飲んで且つ彷徨す
   宗社滅びぬ我が事おわる
   十有九人腹を屠ってたおる

が、この考え方を助長したようです。
池辺君の文章も、「飯盛山にたどりついた二十人の少年たちは、そこで煙に包まれている城下を見た。落城か――二十人の少年たちは自刃の道を選んだのだ。」と、やや落城誤認説のようでもあります。
しかし、真実はどうであったか。鶴ヶ城の会津軍は、白虎隊が自刃した慶応4年(1868年)8月23日からさらに一か月もの間、勇敢に戦い続け、西軍軍使の「会津軍はよくもここまで戦った」という賞賛の声を聞いて、ようやく開城降伏した(9月22日)、というのが真実です。
少年たちがこの時落城と錯覚して自決したとする落城誤認説は、あまりにも彼らを子供扱いし、「お涙頂戴物語」にして観光に利用するものだ。それは、彼らへの侮辱であり、自決した真の原因は、別のところにある、との説(会津藩潔白証明説とでもいうべきもの)が、近時有力です。
飯沼一元氏が出した『白虎隊士飯沼貞吉の回生』という自費出版の本(V2ソリューション社、2012年)がそれです。著者は、白虎隊士唯一の生き残り飯沼貞吉(後半生は貞雄と称していた)の直系の孫にあたります。
この本は、平成20年に飯沼家で発見された飯沼貞吉自筆の「白虎隊顛末記」をもとに、「鶴ヶ城は古の名将蒲生氏郷が築いた名城だから簡単に落ちるはずはない。しかし、十重二十重に取り囲まれている鶴ヶ城へいかに入城するか。隊士の間で甲論乙駁の後、もし敵に捕らえられて縄目の恥辱を受けることになれば、上は君に対して何の面目やある。下は祖先に対して何の申訳やある。如かず、潔くここに自刃し、武士の本分を明らかにするにあり、ということになった。
ここに武士の本分とは、会津藩は天皇に対して至誠を尽くした。朝敵・国賊呼ばわりされる理由はない。ここに抗議を込めて自刃し、もってその潔白を証明するのだ。」と書いています。(この本の表紙をPDFで送ります)(*投稿者註:このPDFは省略)
著者の飯沼一元氏は、2013年3月28日の日本経済新聞夕刊に「白虎隊生き残りの真実」というエッセーを投稿しています。(この新聞の切り抜きも、PDFでお送りします)(*投稿者註:画像ファイルとして添付しました,拡大してご覧ください)
平成23年に、飯盛山の自刃跡地近くに、この説に基づく説明板が建てられ、私も見てきました。

● 旧会津藩士と西南戦争
池辺君の文章に、「明治十年の西南戦役には、薩長中心の新政府に反感を持つ旧会津藩士が三百人も西郷軍に投じている。」とあります。
それはその通りですが、政府軍に従軍した旧会津藩士もいました。その一人、旧会津藩家老だった山川浩(大蔵)は、戊辰戦争では賊軍とされ、いま西南戦争では官軍として参戦し、かつての仲間が大勢加わっている薩摩軍と戦わなければならなくなった複雑な気持ちを
   薩摩人みよや東の大丈夫が さげ佩く太刀の鋭きか鈍きか

と詠んでいます。この人は、初代帝国大学総長山川健次郎や岩倉米欧使節団(明治4年に日本を出発)に加わった女子留学生山川捨松(のちの大山巌夫人)の兄にあたります。
話は飛びますが、その岩倉米欧使節団の副使・伊藤博文は、最初の寄港地サンフランシスコにおける大歓迎会で、日本はたった一年で封建制度から近代国家へと大転換した。しかも「一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さず」にそれを成し遂げた、という大演説(日本の国旗を昇る朝日だの説明をしたことから「日の丸演説」と呼ばれる)をぶちました。
しかし、それはその五か月前に断行された廃藩置県のことだけを念頭に置いたものでした。
歴史の語るところは、最後の会津藩主松平容保が京都守護職を命じられた1862年ごろから幕末までに、さらにまた、維新から西南戦争(1877年)までに、何千、何万という有為な人材どうしの、血を血で洗う抗争(犠牲)の上に日本の近代化は成し遂げられたのです。
以上、池辺君の名文に刺激されて、饒舌な文章を書きました。
失礼をば許されよ。4月20日 青山

楢戸君からのメール4/21(日)09:29 

楢戸です。
青山さんもいろんなことをよく知っているので驚きました。
あんな本や新聞の切り抜きまで持っているとは・・・。
旅行する時はいつもあんな風にいろいろ調べて行くんでしょうか。私なんかその時の思いつきと気の向くままに宿の予約もせずに出かけます。食事は地元の食堂かコンビニ、宿はその時空いているビジネスホテル。若い頃はトイレのある公園などで車泊かテント泊、食事は空き地や河原で自炊していました。
定年後も夏は北海道を2~3週かけてこんなやり方で一巡したりしていました。お金がないこともありましたが、大昔の山歩きのクセなんだと思います。

池辺君からのメール4/21(日)14:27

青山さま 皆々さま
 私が29歳のときに書いた記事をお読みのうえ、皆さんがさらにいろいろ書いてくだ
さり、うれしいことでした。小さい活字の文章を苦労してパソコンに打ち直した甲斐
がありました。
 ことに、青山さん、ありがとうございます。白虎隊の一員として自決を図りながら
たまたま生き残ってしまった飯山貞吉の孫の飯山一元さんが、2013年に日経新聞に発
表した文章に触れ、感嘆、納得しました。
 私は、50年前、白虎隊が観光に利用されすぎていることがちょっと不愉快で、揶揄
するような描写をしましたが、いま、飯盛山にみやげ物屋ガイドの姿が見られず、史
実に基づく説明板もできているとのこと、ほっとしました。
 そういえば、10年余り前、ロータリークラブの取材で会津を訪れたとき、すでに白
虎隊一色ではなくなっている印象でした。大体、いま会津若松には松平藩にゆかりの
ある人たち、どのくらい住んでいるのでしょうね。あの町ではついぞ松平藩士の末裔
という人には会ったことがない……、いやいや、50年前、飯山貞吉の甥に会って話を
聞いているんだなあ。どうやって探し当てたのだっけ、思い出せないのが情けない……。
(終わり) 

Re: 会津若松 いまむかし(5) - 工藤

2024/04/27 (Sat) 16:04:21

工藤です。
このメールのやり取りは、私もCCで見ていたのですが、感想などは送りませんでした。青山君から感想など書いてはどうか、と言われたのですが、「会津若松に特段の思いがないから書くことがない」と言っていました。BBSに矢嶋君がUPしてくれて、改めて読み返した結果を以下に書いてみます。

「白虎隊生き残りの真実」(日経新聞の記事)につて

飯沼定吉氏が長州で庇護されていたとの事実は、すばらしい。(会津に戻されたらどうなっていたことか?)定吉氏が「生き残ったからには、社会のために生きよう」と電信敷設にまい進したのも、すばらしい。例えば私が名前を知っている会津人に山川健次郎がいますが、彼は初代東大総長を務めました。明治維新を支えた人たちと言えるでしょう。
福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、白虎隊に対してではありませんがこう述べています。「武士が忠臣として討ち死にしても文明を益することにならず。命の捨て所を間違えている。」と。定吉氏がこれを読んでいることはほぼ確実です。そのわけは以下の通り。「学問のすすめ」の出版部数は400万部です(慶応・福沢研究所による推計値)。当時の日本の総人口は4000万人で、女子供を除いた男性の内の識字層はほぼ100%読んでいると推測されている(当時は回し読みの習慣もあったから)。定吉氏は、「文明に益するところに生きよう」としたのでしょう。こうした明治人の集積があの明治維新を作り上げたのでしょう。
トインビーは日本の歴史に言及し、鎖国から明治維新を高く評価しています。その理由は日本が西欧列強に植民地化されなかった唯一の国だからです。二次大戦後も植民地化されなかった日本・という事実が、あのベトナム戦争の結果にまで続いている、とも言っています。
福沢諭吉の全著作と生き様は、植民地化されたくない・それをどう防ぐかが原点だと私は思います(こう言い切る福沢研究者はいませんが)。福沢は「富国強兵」にも大賛成でした。
明治維新で偉くなったのは薩長ですが、みんなが一生懸命だったことは(白虎隊まで含めて)、間違いないことだ、と思います。

会津若松 いまむかし(4) - 矢嶋壯吉Mail

2024/04/25 (Thu) 15:55:52

 阿部さんからのメール 4/20(土)11:04

皆さま
会津若松について、池辺さんの記事拝読、なるほどと感じること多く、50年前に書かれたものとは思えない内容で、面白く感慨深く、読ませていただきました。
皆さまそれぞれに思い出がおありのようですね。私も2~3回訪れたことはありますが、観光で行ったのは一度だけ、あとは撮影などの行き帰り、白虎隊の故地もあまり深くは考えず立ち寄った感じでした。
そういえば喜多方か若松でにしんそばを食べたことがあり、あれは京都の影響だったかとふと思い出しました。
因みに主人の郷里は長州ですが、私は長州・会津いずれにも関係ありません。

矢嶋からのメール 4/20(土)13:43

池辺君 皆さま
 楢戸君の呼びかけで青山君の会津若松旅行記で始まった会津をめぐる各人の思い出メールのやり取りが「ある町の百年 会津若松」にたどり着きました。池辺君の名文をしっかりと読ませていただきました,会津に親近感をもつ私にとって大層有難いメールのやり取りになりました。
池辺君ありがとう。
 司馬遼太郎の「王城の護衛者」を本棚から探し出して再読しています,「北のまほろば」には斗南で艱難辛苦したという会津藩士たちの話も出てくるのですか,こちらも読んでみたいと思っています。 4月20日 

楢戸君からのメール 4/20(土)17:51

楢戸です。
池辺さんの「ある町の百年、会津若松」、興味深く読ませていただきました。
記事を書くためにこんなに調べたり色々な方に会ったりするんですね。
私の泊まった家も、元は会津の漆器屋さんで、奥に白壁の大きな土蔵がありました。
私の従兄弟2人は父親の知り合い(元軍隊時代の部下)が福島県の知事だったので県庁に入りましたが、2人ともお役人にぴったりの人で父親そっくり、ああいうのを「会津っぽ」と言うのでしょうか。
今度行った時は喜多方ラーメンはやめて会津の京都風の料理を食べ、旧市街地をゆっくり散歩してきたいと思いました。

楢戸君からのメール 4/20(土)21:56

楢戸です。
東北方面は春は桜を追って、秋は紅葉を出迎えに、夏は車で北海道に行く途中で、毎年旅行していましたので、ほとんど各地をドライブしているのですが、「斗南」という地名は聞いたことがありませんでした。ネットで調べたら戦争に負けた会津藩が斗南に移封させられて斗南藩となり、廃藩置県で斗南県となった後、青森県に編入されたみたいですね。
場所は今の「むつ市」とその周辺で、下北半島全体が斗南藩だった様ですから、恐山や仏ヶ浦観光の時や下北半島の大間から函館にフェリーで渡る時はいつも通っていたのでした。
あの辺りは陸奥湾を挟んで反対側の暖流が流れる津軽半島と違って、寒流の影響で気温が低く米が獲れない不毛の地帯だったと地元の人が言っていましたから、移住させられた会津藩士は矢嶋さんの話の通り「艱難辛苦」したのだろうと思います。(昔は米が今の現金で、武士の給与も「石」で表していた?)

会津若松 いまむかし(3) - 矢嶋壯吉Mail

2024/04/24 (Wed) 18:10:52

 池辺君からのメール 4/19(金)23:26

皆々さま
 池辺です。草野球の那須合宿から帰ってメールを開くと、青山、矢嶋、楢戸の諸君が、それぞれに会津若松の思い出をつづっていたので、私もそれにつづくことにしました。
私が初めて訪ねたのは昭和43年(1968)の秋でした。この年の10月22日に結婚式を挙げ、新婚旅行から帰るとすぐ、「ある町の百年」という連載企画の取材で会津若松の取材に行っています。その時の記事を50余年振りに読み返して、いまも通じる部分がかなりあると思いましたので、皆さんに読んでいただくべくパソコンに打ち込み、添付の形でお送りすることにしました。かなり長いので、暇なときにお読みいただければ幸いです。
定年退職後は、町会の旅行、ロータリークラブの取材などで再訪していますが、市街地の雰囲気はあまり変わっていないようですね。乾物愛好者の私は、身欠きニシンや干鱈がいまもよく市民に食べられているのに興味をそそられました。その昔は、新潟から阿賀野川を経由して運び込まれた食材でしょうが、なんとそれらを使った料理が多くの喫茶店で出されるのでビックリしました。味わいが京都風なので、幕末、松平藩が京都守護職の役目を務めさせられ、かの地でその味を知った影響かもしれない、などと空想したことがあります。
戊辰戦争で敗れた松平藩は、明治3年、斗南に移されました。私の書いた記事によると、2800家族1万人が、いまの下北半島に移住して、とんでもなく悲惨な生活を強いられています。1994(平成6)年、私は司馬遼太郎の『街道をゆく・北のまほろば』の取材旅行の折、杉山むつ市長ほか何人かの会津藩士の末裔に会っていますが、明治4年の廃藩置県後は多くの旧藩士が斗南を去り、残ったのは少なかったという印象を受けています。会津に戻ったのはどのくらいの数であったか。縁があった人々だけだったのではないでしょうか。
以上、私の会津若松に関する思い出です。

●「ある町の百年 会津若松」

会津若松は白虎隊の町である。戊辰戦役のうらみがいまも残っているから、うかつに薩摩生まれ、長州生まれなどと名乗ろうものなら……と聞かされて出かけた。会津盆地の中心にあるこの地方都市は、いかにも白虎隊の故地らしいたたずまいの町である。白壁の土蔵が至る所に残っている。
町割りはほぼ将棋盤の目のように整然としているが、十字路は完全な十字路ではなく、独特の鍵十字である。一直線の南北道路に対して、東西の道路が段違いに交差している。城下での市街戦に備えてわざわざ見通しがきかないようにつくってあるのだという。
藩政の名残は街路ばかりではない。この町を支える伝統産業、酒造と漆器製造もまた藩政時代におこされたものである。観光客の目に快い多くの土蔵は、その工場であり、倉庫なのだ。そんな会津若松について、功成り名遂げて、ときどき故郷に帰るだけの会津っぽたちは無念がる。
「会津は取り残されてしまった。過去の遺産を食いつなぐだけで百年を経てしまった。百年前の戦争の影響だなあ」
 はたしてそうなのか。百年前にさかのぼろう。
当時、会津地方は、徳川幕府の親藩大名松平藩(二十三万石)の支配下にあった。松平藩は、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)以来、比較的英明な藩主に恵まれたが、ことに天明元年(一七八一)家老となった田中玄宰(はるなか)の藩政改革の効果が大きく、東北地方きっての雄藩の地位を保っていた。玄宰は、藩財政建て直しの手だてとして、いわゆる会津漆器の生産を奨励し江戸表などに送り出した。また灘から杜氏をよんで会津清酒の品質向上を図りもした。一方、藩校日新館をつくって人材の育成にも力を注いだ結果、幕末には、薩摩、長州に対抗しうる精強な軍事力を持つ幕府方唯一の藩と目されるようになっていた。それが悲劇の元といえば言えよう。
文久二年(一八六二)、九代藩主松平容保(かたもり)が、京都守護職の役目を引き受けさせられてしまった。藩士一千人をひきつれ京に乗り込んだ容保は、以後ひたすら、尊皇討幕運動の中心地京都の治安維持に当たったのである。討幕派の志士たちを切りまくった新撰組もその配下だった。
慶応四年(一八六八)正月、大政奉還後間もない緊張した局面で、会津藩を中心とする幕府軍と薩長軍とがぶつかった。鳥羽、伏見の戦いである。以後、会津藩は「朝敵」となり、西軍(会津では官軍、賊軍とは決して言わず、西軍、東軍と呼ぶ)の攻撃目標となった。
八月二十二日、西軍が会津盆地に攻め入った。白虎隊の悲劇はこのときに起こった。白虎隊というのは、会津藩の十六、七歳の藩士で編成されたいわば予備軍、一隊約五十人で六隊あった。このうち士中二番隊の三十七人が戸ノ口原に出て東軍と銃火を交えたのだが、敗れ、翌二十三日退却することにした。若松の鶴ヶ城まであと四㌔ほどの飯盛山にようやくたどりついた二十人の少年たちは、そこで煙に包まれている城下を見た。落城か¬¬――二十人の少年たちは自刃の道を選んだのだ。
いま、その飯盛山にこのとき死んだ十九人の墓と、偶然助けられて生きのびた飯沼貞吉の墓がある。年間百三十万人からのお客さんが参拝する観光地になっている。観光バスを降りた団体客は、二百余段の石段をわざわざ歩くこともなく、ベルトコンベアーで運び上げられる。上ではみやげもの屋のお抱えガイドが待ち受けていて、ひとわたり案内して回る。
「ちょっこらそっちを見てこらんしょ」
会津弁の名調子が交じるたびごと、お客が笑いくずれる。飯沼貞吉の墓前では、「この人が生き残って話を伝えてくれたおかげで、わたしら商売になってるんス」といった調子で、最後はみやげもの屋に導くわけだ。ガイドは売り子に早変わり。白虎隊人形の卸屋が、「シーズン中は一日百個ずつ納めても間に合わない」と半ばあきれている。そのみやげもの屋の店主、飯盛正康さん(59)は、市内の高額所得者ベストテンの上位にランクされているとか。「先祖の善意が子孫にしあわせをもたらしたということでしょうね」と、多少は照れたような面持ちだ。
 西軍の許可が出ず一冬ほったらかしにされた十九人の遺体を、正康さんの祖父母らが仮埋葬したいきさつがあるのである。
 そんな飯盛山の現状について眉をひそめる向きもある。飯沼貞吉の甥に当たる飯沼一省・都市計画教会会長(77)は、「観光の道具にされているようで……」と、遺族の気持ちを語る。
「伯父の貞吉が首の傷を隠し、白虎隊についてあまり話したがらなかったのは確かだが、ひとり生き残ったため郷里にいれられず、仙台で寂しく一生を終わったなどと話をおもしろくして伝えられては困る。故郷に生活の根拠を持たぬ役人として任地の仙台にいたまでのことだ」と伝説を訂正する。だが、市内の東山温泉の売りものは芸者の白虎隊踊りというご時世なのである。
 鶴ヶ城を巡る東軍と西軍の攻防は、白虎隊の自刃後もつづき、西軍の囲みを破って城内に入ろうとする東軍に、なぎなたで武装した娘子軍(じょうしぐん)といわれる女性隊が加わり奮戦、西軍の猛者もたじたじとさせるすさまじさだった。会津藩が降伏したのは籠城一か月後の九月二十二日。この間女子二百三十余人を含めて三千人余りが戦死、あるいは自刃して果てた。
 降伏後謹慎させられていた藩士ら二千八百家族の約一万人が、松平家の斗南(となみ=いまの青森県下北半島一帯)移封とともに、つぎつぎ移住していったのは、明治三年(一八七〇)に入ってからである。不毛の辺地での生活は悲惨そのもので、明治四年の廃藩置県後は多くの人が離散していった。当時、会津出身者は、薩長閥の強い官界に入っても出世の望みはなく、自然、教育界、宗教界に進むものが多かった。のち東京帝大総長となった山川健次郎、キリスト教伝道の山口鹿三らがその代表である。夏目漱石の『坊っちゃん』に登場する会津っぽの数学教師山嵐もそんな一人であったに違いない。
 明治十年の西南戦役には、薩長中心の新政府に反感を持つ旧会津藩士が三百人も西郷軍に投じている。明治十五年、薩摩出身の三島通庸福島県令が、会津若松を中心に山県、栃木、新潟の三方面を結ぶ三方道路(延長二百八㌔)建設を強行したときに起こった福島事件にしても、自由民権の裏に戊辰戦争の恨みがこもっていたと言われる。そんなところから「怨念の町・会津若松」のイメージがつくられていったのだろう。
 会津若松市立図書館の大村武一館長(60)は、山口県萩市の松下村塾のすぐ近くに生まれ育った生粋の長州人である。十三年前、山口県から赴任してきたときの歓迎会で「乞食と口をきいても、薩長とは口をきくな」というあいさつを受けたと苦笑する。いまに残る恨みというよりは、東北人らしいユーモアと解すべきなのかもしれない。
「だが会津っぽよ、おごるな。敗軍の名誉に酔いしれてはいないか」と、この長州人は厳しい批判を投げ返すのだ。
 会津の「賊軍コンプレックス」については、昭和三年(一九二八)、松平容保の孫の節さんが、秩父宮勢津子妃として皇族となったときにすっかり消えたと、多くの人が語った。が、東京、青森などに残る会津会は、その「賊軍コンプレックス」の余映だろうか。東京の会津会は、福島県人会よりもずっと盛んで、年に二回ずつ会合している。
 会津っぽのイメージというと、当の会津人たちは、実直で、気が利かず、すぐ腹を立てるが人を陥れることはできないといったタイプの人間を思い浮かべるようだ。その意味で今回出会ったもっとも会津っぽらしい会津っぽは、東京に住んでいた。明治二十七年生まれ、七十四歳になる三宅直一さんというこの老歯科医師は、戊辰戦役のとき十五歳だった母すてさんから、難儀話を聞かされ、聞かされて育った。かつては高禄の家柄だったが、そのころはとんでもない貧乏暮らし、明治三十六、七年の大冷害のときには布施米をもらう資格のある極貧家庭になっていた。だが。すてさんは「施し米で直一を育てたとあっては、母の一分が立たぬ」と、施しを拒絶した。幼い直一少年が発奮したのは当然だろう。母を楽にしてあげたいの一心で、十五のとき故郷を出て、函館、東京で歯科医の書生、見習い。猛勉強の末、東京・日本橋に開業する身となった。
「どんぶり勘定ですみ、だれにも頭を下げないですむ医者になってよかった」
 頑固一徹、誇り高いこの会津っぽは、豪快に笑い、そして母を語るときははらはらと涙を落とすのである。
 この三宅老の育った時期は、若松の町にとっても大きな転換期だった。明治三十三年四月県下で初めて市政施行、同年七月岩越鉄道(いまの磐越西線)郡山―若松間が開通、三十四年電灯がついた。だが、繊維工業などを中心に起こりかけた産業革命は失敗し、生産性の低い在来産業もバタバタつぶれていった。このため、市経済の発展策として軍隊誘致の機運が高まり、明治四十一年、歩兵第六十五連隊が設置されたのだ。白虎隊は、国難に殉ずる軍人精神のカガミとして利用された。どこの学校でも白虎隊の剣舞をやり、女子はなぎなたの訓練があったりした。
 戦後の昭和三十年、若松市は周辺の七か村を合併、北九州の若松と紛らわしくないように会津若松市となった。現在、富士通など二、三の近代工場があるだけで、あとは酒造、漆器製造という伝統的な製造業に支えられているこの町に、自衛隊を誘致しして、再び軍都にしようという空気が、商業界の一部にある。それに対して、四十三年春市長になったばかりの高瀬喜左衛門氏(47)は、
「自衛隊誘致とか、観光開発とか、寄生虫みたいに人のふところを狙うのは、あんまり好きでねんだな」
 と、会津なまりで語った。
 高瀬市長は、漆器問屋の老舗白木屋の第十四代当主、京大で物理を学び、会津短大などの教壇に立ったこともあるインテリで、革新系の支持を受けている。
「会津盆地という金魚鉢の中でコイを飼えなかったのは無理もないことで、近代工業が栄える条件はなかった。経済的尺度だけで測れば停滞しているかも知れないが、この静かな町をわざわざ喧噪の町にすることはない。よそから遊びに来た人も静かになるような観光都市にしたい。やたら白虎隊、白虎隊と口にしたくないな」と、しごくおっとりしている。あえて波乱を求めぬ会津町人道に徹しきっているのかも知れない。
 会津若松の町を歩けば、とにかく白虎隊、白虎隊だ。白虎剣士会というスポーツ少年団があり、町には白虎タクシーが走り回っている。だが、鶴ヶ城址に鉄筋コンクリートの天守閣が再建され(昭和四十年)、飯盛山が大にぎわいしだすとともに、市民の足はかえって城址からも飯盛山からも遠のいてしまったようだ。藩校日新館の流れをくむといわれる会津高校には、剣舞委員会というクラブがあって、春秋一回ずつ飯盛山で剣舞を奉納しているが、その委員長でさえ、ふだんは飯盛山に足を向ける気にならないというのである。白虎隊はもはや歴史的事実でしかない。
 ここで、会津若松の町を、静かに支えつづけてきた人たちに光をあてよう。薄暗い土蔵の中にすわりつづけてきた漆器製造の人たちだ。
 市内の漆器製造業者は約五百軒、従業者数三千五百人、年産三十五億円で日本一の生産額を誇る。卸、小売りなど関連業を含めると、人口十万の同市の人間の三分の一が漆器関係だろうとまで言われる。
 会津漆器の歴史は古く、平安時代にさかのぼれるのではないかとされる。産業的な意図から生産を奨励されたのは十六世紀末の蒲生氏郷時代からで、産地が形成されたのは流通経済の発達した江戸時代初期。十八世紀中ごろには、松平藩領内の漆木は約百八十万本あったという記録が残っている。家老田中玄宰は京都から蒔絵師をよんで、製品の質を高める努力をした。以来、漆器は、外国にも輸出される会津の貴重な外貨獲得産品となった。もっとも第二次大戦後は、プラスチック漆器、化学塗料吹き付け漆器の比重がまして、伝統の木製漆器の製造は二、三割だ。原料漆も中国からの輸入品になった。
 生産は分業化している。原型をつくる木地師は、お椀などをつくる丸物木地師と、重箱、お盆の類をつくる板物木地師に分かれている。下地屋は、塗りがひび割れしないように下地をととのえて塗師に回す。塗りも丸物と板物に分かれていて、それぞれ中塗り、上塗りの工程がある。最後の仕上げが蒔絵師の仕事、金粉をまいたり、螺鈿(らでん)を埋めこんだりして絵をかくのだ。
 漆は乾燥のさせ方が微妙なので、温度、湿度を一定に保ちやすく、しかもほこりが入りにくい土蔵の中で作業を行う。小さな窓の下の土間にあぐらをかいて長時間コンをつめてする仕事だ。
 四十三年夏会津を訪れた皇太子ご夫妻に仕事ぶりをお見せする栄に浴したという蒔絵師の金川秀吉さん(60)は、遠い目つきでこう半生を振りかえった。
「高等小学校を出てすぐから、この仕事に入った。当時は大体十二時間労働で、朝七時から夜九時まで仕事をするようなこともあった。身体にいいわけがありません。兵隊検査でも、漆器業界からは甲種合格なんて、めったに出ませんでした。土蔵の外の世界ともほとんど関わりなく、すわりづめで過ごしてしまったんですなあ」
 会津若松の百年の裏側に、こういう人たちがどれほどたくさんいたことだろうか。

《あし》上野から東北本線、磐越西線経由の急行で四~五時間、会津若松下車。千五百二十円。特急(三時間三十五分)も一本ある。
《やど》東山温泉に三十三軒、芦ノ牧温泉に二十一軒、市街地に約百軒。千五百円~四千五百円。十二月~三月は冬季料金で二割引き。
《あじ》「花春」「末広」など地酒が二十余銘柄。わらび、ぜんまい、きのこの漬け物など山菜、川魚料理。身知らず柿。みやげに漆器、桐げたなど。

会津若松 いまむかし(2) - 矢嶋壯吉Mail

2024/04/24 (Wed) 12:30:14

矢嶋からのメール 4/16(火)15:27

 お孫さん一家との会津若松旅行の様子を綴られた長文興味深く読ませていただきました。私が初めて会津地方を訪れたのは大学3年の夏でした,卒業論文のフィールドが奥会津金山町横田という只見川沿いの地域で開発中の黒鉱鉱床(銅・鉛・亜鉛)鉱山周辺の地質と鉱床成因探求が課題でした。当時国鉄只見線は会津若松から会津川口まででまだ蒸気機関車の時代でした。もちろんエアコン無しでトンネルに入るたびに窓を開け閉めしても汽車を降りたらシャツに灰がいっぱい,灰色になっていて参った(今考えると大変貴重な贅沢ともいえる体験でした)。これに懲りて2回目以降は3時間以上もかかるバスに切り替えたりしたことが思い出されます。会津若松には仙台~横田の行き返りの途中一回だけ七日町の旅館に一泊してお城やさざえ堂などを見学した記憶があります。その後は会社の出張で喜多方熱塩の日中ダム建設工事現場や会津本郷地滑り調査・第二沼沢沼(揚水式)発電所建設工事現場などへ行った折にもっぱら暗くなってからのひと時地元銘酒を飲み交わして過ごすという会津若松市滞在だけ。5,6年前に只見線を撮るという会津若松駅集合の撮影ツアーに参加した折,1日先行して,猪苗代町の立沢不動滝に寄り会津駅前のホテルに宿泊したこと,そしてもう7,8年前になるかなあ只見線が2011年夏の豪雨で会津川口~只見間が不通であった頃小出~只見(只見線),只見~会津川口(代行バス),会津川口~会津若松(只見線)と乗り継ぎ,只見町の温泉と会津川口から南下した温泉宿と二泊しての妻との二人旅,この時は会津若松は単なる乗り換えで駅前から白虎隊士の像を眺めただけでした。
 全通した只見線小出~会津若松を乗りに行きたいなあと思ってはいるのですが,果たして叶えられるかどうか?
 ところで小原庄助さんが高遠出身だったは知りませんでした!新知見です。
 貴兄の会津旅行印象記を読んで会津地方を訪れたことが懐かしく思い出されなんともまとまりのない話の羅列となりましたが私にとって会津地方は少なからぬ縁のある場所です,何故かいつの間にか家には大小・形いろいろの“赤べこ”がたくさん集まっています,これらの赤べこ群を写真に撮って貼り付けた2年前の年賀状は意外と好評でした,ついでの話です。

楢戸君のメール 4/16(火)17:35

青山さん;
楽しい旅行記ありがとうございました。
私の滞在は中学生の夏休みに伯母の家に1週間ほど泊まっただけで、印象と言われてもほとんど記憶に残っていません。伯母は会津塗の漆器屋に嫁いだのですが、その頃はもう漆器の作成はやっていませんでした。ご主人は旧陸軍の大佐殿で、今思えば軍人恩給で暮らしていたのでしょうが、いつも正座して書見台で読書していました。(会津藩士の風格)街の雰囲気は京都や津和野の様な古い家が建ち並び江戸時代の雰囲気が残っている感じでした。2~3百年たっても家が壊れないで残っているのは、京都もそうですが、材料や建て方
にお金をかけたからだと思います。江戸時代は草葺屋根で土間で生活しているのが一般的だったのでしょうから、庶民があんな家に住んでいたのなら他と違って裕福だった?
先日日光から会津に向かう「会津西街道」をドライブしたのですが、そんな名前の街道が今も残っているのが不思議でした。江戸から北に行く主要街道の「日光街道」は徳川家康を祀る日光東照宮があるからわかりますが、青山さんの旅行記を見て、会津も江戸時代の重要拠点だったことがわかりました。
楢戸君のメール 4/17(水)06:42

楢戸です。
矢嶋君が東北大学在学中に只見線沿線あたりに行っていた話は前に聞いたことがあります。
私も只見川添いの小出~会津若松の国道252は何回か通ったことがありましたが、並行で走るJR只見線は乗ったことがありません。
国道と只見線では違った景色なんだろうと思って調べてみたら、只見線は佳境の田子倉湖あたりはほとんどトンネルなんですね。あのあたりは豪雪地帯で冬季は国道は閉鎖になりますが、JRが通れるのはトンネルだからということがわかりました。
前にも話したかも知れませんが、あの沿線の小出側の大白川にある民宿に山菜料理を食べに何回か泊まったことがありました。そのまま関越道を帰るのもどうかと思い、福島県側の白濁硫黄泉経由で帰るのですが、途中の曲がりくねった山岳道路も中々でした。
矢嶋君のメールを見て今年は久し振りに新緑の頃行ってみたいと思います。民宿のご主人とゴルフをする約束も果たせていませんし。
前にJR只見線は運賃100円稼ぐのに費用が300円かかる大赤字路線と聞いたことがありますがホントなんでしょうか。

青山君のメール 4/17(水)16:32

矢嶋君、楢戸君
私の「会津若松」の感想をお寄せいただき、ありがとうございました。
矢嶋君は、東北大学在学中からすでに会津と様々な縁をお持ちと知りました。会津というより、その先の只見線かもしれません。
今回の私の旅行でも、同じボックスに乗り合わせた、初老の男性(60代後半か70代)と話をしたのですが、彼は、これから只見線に乗りに行く、と嬉しそうに言っていました。
小出まで行って泊るのだそうです。磐梯山は、いつも右の車窓から見え、近づいてやがて遠くなって見えなくなるが、列車がカーブするので、また近くに見えますよ、と教えてくれたのも、その人でした。自分は乗り鉄だが、写真も撮る、と言って大きなカメラを見せてくれました。「矢嶋君と同じだ、第一線を退いてからこういう人生もあるのだ」、と私は思いました。
楢戸君の会津地方とのかかわりは、中学時代の会津滞在を別とすれば、その周辺の道路をもっぱらクルマで走ったり、泊ったりという関係のようですね。最近も日光から「会津西街道」をドライブされたとか、その元気に脱帽です。
会津西街道といえば、コロナ前に、私も、家内と一緒に日光鬼怒川へ車で行き、翌日、三依水生植物園の「青いけしの花」を見て、帰ってきましたが、途中で、「奥会津へ」という標識があり、日光と会津は、意外に近いのだ、と思ったことがあります。
若い頃には、ドライブする元気はあっても、その時間とお金がなく、今は時間とお金があっても、その元気がない私です。
今も三拍子揃って、走り回っている楢戸君に、乾杯です。 4月17日 青 山

会津若松 いまむかし(1) - 矢嶋壯吉Mail

2024/04/24 (Wed) 12:26:43

会津若松にお孫さん一家と旅した青山君の旅行記から始まった(青山・阿部・池辺・楢戸・矢嶋)の5人が4月13日(土)~21日(日)の1週間余りで取り交わしたメールの数々を紹介します。
 池辺君と青山君の蘊蓄ある会津若松についての今昔話は大変面白く貴重な資料でもあり他の級友達にも読んで貰ったら好いなと思い数回に分けて投稿することにしました。なお私信であるメールの公表することについては全員の了解を得ています。

 まずは楢戸君からのメール 4/13(土) 08:04

青山さん 会津若松旅行はいかがでしたか。
東北旅行にはよく出かけますが、会津盆地方面には交通が意外に不便なので中々行く 機会がありません。
母の姉が会津若松の漆器屋さんに嫁いでいたので、中学生の頃従兄弟に会いに行き夏 休みに1週間程泊まったことがありました。旧陸軍の軍人だった伯父さんが鶴ヶ城や白虎隊で有名な飯盛山などを案内してくれた 思い出があります。
京都に似た古い街並みが今でも残っていると思いますので、一度ゆっくりと歩いてみたいと思っています。

青山君からのメール 4/16(火)00:11 

楢戸君、皆さん
楢戸君に催促された、会津旅行の印象記です。ご笑覧ください。
楢戸君は昔会津に滞在したこともある由、会津の風土についてどんな印象をお持ちか、聞かせていただければ、幸いです。
● 4月5日(金)6日(土)に、孫一家と会津若松に一泊旅行してきました(一行5名)。
郡山まで東北新幹線、そこから磐越西線に乗り換えて会津若松まで、約3時間です。
会津は、私の郷里の信州高遠と連携協定(姉妹都市)をしており、前から一度は、と思っていた町です。高遠が会津と姉妹都市になった理由は、次の通り。
二代将軍徳川秀忠の庶子(落胤)で高遠藩に預けられ、そこで育った保科正之が、後に兄家光に仕え、その厚遇を得て、会津23万石に移封されて初代会津藩主となり、藩祖として藩政の基礎を築いたこと、に由来します。
会津民謡に「小原庄助さん何で身上潰した。朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上潰した」という一節がありますが、この小原庄助さんという人物は、保科正之の会津移封に従って、高遠から会津に赴いた豪農のひとり、と言われています。高遠には、小原という地名が残っており、そこで庄屋のようなことをやっていたようです。
保科正之は生涯高遠を思い、晩年、その夢がかなって高遠に帰るにあたり、その期待を、
  「見ねばこそさぞや景色の変わるらめ六十路になりて帰る故郷」
と詠んでいます。

● さて、会津若松は、何と言っても、戊辰戦争に続く会津戦争(1868年)の舞台です。
私の若い頃の友人に会津出身の男(会津ッポ)がおり、「会津では先の大戦といえば、太平洋戦争ではなく、会津戦争だ」と言っていました。融通が利かない頑固者でした。私は、彼の人となりの一端は、会津の教育に負うところが大きいと思っていました。

会津若松駅に着くなり、白虎隊士の像に迎えられました。輝子の歌、
  「駅前の白虎隊士像に迎えらる兄は弟の肩に手を置く」。

● 1日目は、鶴ヶ城、飯盛山を見て、東山温泉に泊まりました。
数年前の大河ドラマ「八重の桜」に出てきた様々なシーンを思い出しました。
鶴ヶ城は、会津戦争で焼け落ちたのを戦後復元したものです。松本城などと比べて、階段の幅も広く勾配も緩やかでしたが、輝子と次男の妻は敬遠し、私と次男、孫(小4)の三人で登りました。その時の輝子の歌、
  「少年の天守閣より手を振るを車椅子より吾は見上ぐる」。

飯盛山は、白虎隊自刃の地。白虎隊とは、16歳・17歳の少年で編成された会津藩予備兵部隊340名程度。ほかに、朱雀隊(18歳~35歳)、青龍隊(36裁~49歳)、玄武隊(50歳以上)があり、主流は、青龍隊、玄武隊。
白虎隊はあくまでも予備兵部隊であったが、士中二番隊と呼ばれた42名が国境の戸の口原の戦いに参戦。しかし、官軍の近代兵器を備えた猛攻に多くは討ち死に、20名が飯盛山に逃れ、そこで自決したのであった。1名は後に奇跡的によみがえった。
飯盛山には、急勾配の「歩く歩道」が設けられており、それに這いつくばるような格好で、「自刃の跡地」まで登りました。南向きの斜面には墓地のほかに様々な記念碑が立っていました。遥か南に目を凝らせば、確かに、鶴ヶ城の天守が見えました。輝子の歌、
  「帰り来ん白虎隊士をひたに待つ母の心は昔も今も」。
近くに「さざえ堂」と呼ばれるけったいな建物もあった(お堂だが、形がさざえの殻のように楕円形に渦巻いた建物)。

東山温泉は、古くからの有名な保養地。与謝野晶子や竹久夢二の歌碑等もありました。私たちが泊ったのは、ネットで探した「大江戸温泉物語東山グランドホテル」でしたが、すでに廃業した温泉宿(湯治場)があちこちに見られ、我々がスキーの帰りに立ち寄ったあの老神温泉郷を思い出しました。

● 2日目は、武家屋敷跡(家老西郷頼母の邸宅跡)を見て、七日町通りの古い町並みを歩く、というお決まりのコースを辿りました。
藩校「日新館」には、時間の関係で行けなかった。
武家屋敷に陳列してある数々の調度品は、実際の生活をまざまざと想像させて、興味がつきませんでした。
豪壮な邸の中に凄惨なシーンを再現したひと間がありました。家老西郷頼母の妻女家族が、女子供は足手まといになってはならぬ、と30数名一緒に自決した場面を人形で再現した、逆さ屏風を張り巡らした部屋です。思わず息をのみました。
長い歴史の中で見れば、「何と早まった判断か」、という見方もないとは言えませんが、「死して志を残す」会津の魂を見た思いです。
幼少の頃からこのような会津戦争の話を聞かされて育てば、「会津ッポ」の良い意味での覚悟や反骨精神、悪い意味では非妥協的・斜に構えた性格も理解できるような気がしました。
七日町通りは、かつての目抜き通り。ところどころシャッターが閉まったところはあるものの、浦野君が涎を垂らしそうな明治・大正・昭和期の建物が立ち並び、それが生活の一部として使われていました。私たちは、その通りを一時間近く、ブラブラ散策して、お土産物など買って歩きました。
その一画に野口英世がやけどの治療を受けた医院が残っており、「野口英世青春館」の展示が面白かった。
以上です。長々と、失礼しました。4月15日 

クラス会のご案内 修正 - 阿部和江Mail

2023/04/13 (Thu) 11:48:13

先に工藤さんからクラス会案内を掲載いただきましたが、若干の訂正がありますので再度ご案内します。

 会場 学士会館
 日時 令和5年5月29日(月)12:30~15:00
              (開場 12:00)
 会費 7,000円
   (物価上昇につき改定させていただきます。
    ご了承ください)

案内状は連休明けではなく、準備でき次第発送いたしますので、皆さまご出席いただけますよう、よろしくお願いいたします。     阿部
 

伊那谷の桜 - 楢戸 守Mail

2023/04/04 (Tue) 07:06:43

矢嶋君や阿部さんの様な写真愛好家がなぜ伊那谷へ桜を撮りに行くのか不思議でしたが、矢嶋君投稿の「信州南部写真スポット」を見て納得できました。
諏訪湖から南に下って伊那谷に入ると急に桜が増えてあちこち桜だらけになります。東北地方などの「桜の名所」はソメイヨシノの群落や桜並木が多いのですが、伊那谷の桜は大部分が枝垂れ桜で、しかも1本桜の巨木が多く“絵になる桜”の様です。この時期は中央アルプスや南アルプスの残雪の遠景もありますから、写真マニアにはたまらないのでしょう、阿部さん撮影の枝垂れ桜には山梨・松本や岐阜ナンバーの車まで来ていました。
今回は甲府盆地の“桃源郷”の桃の花も見る急ぎのドライブでしたが、次回は伊那谷の桜の名所をゆっくり見てきたいと思います。

伊那谷に枝垂れ桜を訪ねて - 楢戸 守Mail

2023/04/02 (Sun) 08:50:04

この掲示板で矢嶋君から紹介がありました様に、「風景写真」という写真の専門誌の3・4月号(桜の特集号)の表紙に阿部さんが撮った桜の写真が採用されました。
全国の写真愛好家が投稿した沢山の写真の中から選ばれて表紙に採用されたのですから大変な快挙と思います。
桜見物が好きであちこちの桜を見によく出かけますが、写真誌の表紙に載ったこの枝垂れ桜は素晴らしい桜でしたので、教えて貰って現物を見に行ってきました。
阿部さんの話では『中沢・蔵澤寺の脇の道を少し下って畑の中の墓地がある所』とのことでしたので、伊那谷の中沢集落を探し、蔵澤寺(室町時代創建という古刹でした)で場所を教えてもらいました。
“中沢・上の山の枝垂れ桜”というこの桜は、樹齢85年・高さ10m以上の立派な紅枝垂れ桜で、これまで見た有名な枝垂れ桜と比較しても見劣りしない素晴らしい桜でした。
枝垂れ桜で有名なのは福島県にある“三春の滝桜”で、国の天然記念物に指定されたという大きな枝垂れ桜ですが、この桜は樹齢1000年(推定)という古木で、支柱に支えられてやっと立っているという感じでした。
また京都にある“祇園の枝垂れ桜”も人気があるみたいですが、この桜は最近枯れてしまい、現在あるのは有名な桜守の15代佐野藤右衛門が寄贈した2代目だそうです。
この桜のある伊那谷は南アルプスと中央アルプスに囲まれた細長い盆地で、矢嶋君が南アルプスの仙丈ヶ岳や北岳の遠景を入れた同じ駒ヶ根市にある光前寺の枝垂れ桜の写真を送ってくれましたので、帰途その光前寺にも立ち寄ってみました。あいにく桜はまだ咲き始めでしたが、周囲の畑の水仙や菜の花が真っ盛りでした。

Re: 伊那谷に枝垂れ桜を訪ねて - 阿部和江Mail

2023/04/03 (Mon) 21:10:09

駒ケ根の桜を見に行ってくださってありがとうございました。満開の枝垂れを見ることができてよかったですね。私も今週末に予定していましたが今年の開花は2週間も早く行く先を変更しなければなりません。前にもそんな年があり急遽遅咲きの光前寺を訪れたことがあります。
光前寺は霊犬早太郎の伝説や光苔で有名なお寺です。古刹蔵澤寺にも隠れキリシタンにまつわる言い伝えがあり、元祖歴女にとっては楽しい旅になります。
信州北部や山沿い、また東北地方の桜もこれからですが、今年は予想が立てにくいですね。

Re: 伊那谷に枝垂れ桜を訪ねて - 矢嶋

2023/04/02 (Sun) 19:44:54

楢戸君の行動力には恐れいりました。一気に車を駆って駒ケ根まで出かけるとは思ってもいませんでした。 

さて阿部さんが撮影した枝垂れ桜は、
 信州「桜」撮影スポット「長野県南部」https://www.pixpot.net/al_lists/dview/23/shinshu-sakura-south/
 にアクセスして「駒ケ根・伊那周辺の一本桜・古桜・桜の名所」の中沢の桜で見られます。(添付写真参照)

なお、「風景写真」2023年3-4月号表紙に採用された 阿部さんの写真は
https://www.fujisan.co.jp/product/2277/new/
で見ることができます。

332歳の春スキー - 青山善充

2023/03/17 (Fri) 11:43:46

    (2023年3月16日)

今年は、3月14日に気象庁が靖国神社の桜の標本木で、東京の桜が開花したと発表した。
平年より10日早く、昨年より6日早い開花で、東京としては統計開始以来、2021年と2020年と並び最も早い記録とのこと。

その翌日(3月15日)、私たち、楢戸、工藤、池辺、青山の4名は、今シーズン2回目の春スキーに出かけた。
場所は、1回め(3月8日)と同じ、丸沼高原スキー場(群馬県片品村)。
当日朝7時前に、三鷹駅で楢戸君のクルマに池辺、青山の2名が乗り込み、途中新座駅で工藤君をピックアップ。
所沢から関越高速、沼田ICでおりて、一般道を40キロ余り走り、10時過ぎ丸沼高原に着く。

ゲレンデに出たのは10時半過ぎ。天気は快晴、空は抜けるように青い。気温は10度近く、典型的な春スキー。
ゲレンデの状態(雪質)は、絶好調とは言えないまでも、まずまず。スキーヤーやボーダーの姿もまばらで滑りやすい。
午前中、斜度最大13度のブルーコースを10本、長い昼食休憩を挟んで、午後は斜度最大17度のバイオレットコースを含めて数本滑った。

添付の写真は、ブルーコースのスタート地点、武尊(ほたか)を背景とした、全員83歳、合計332歳の勇姿(?)。
4人のスキーの特徴は、工藤君が一番うまい。スキー歴が長く、理論に詳しい。滑る姿勢もよく、シュプールが美しい。
楢戸君のスキーは、基本に忠実で常に安定している(彼の車の運転と同じ)。私は、楢戸君が転ぶのを一度も見たことがない。
池辺君は、スピードを出さないと満足できない。ちょっと冒険をしたがるスキー。一度派手に転倒して、ゲレンデに財布のお札をばら撒いたことがある。
私は、子どもにも「スキーだから転ぶのは当たり前」と言ってきた。いつまでも我流が抜けず、自分でも「よく転び、よく学べ」のスキー。
以上の4人だと、楢戸・青山組はほとんど緩斜面で滑り、工藤・池辺組は時々やや急斜面を滑ることになる。
今年は参加しなかったが、常連の小泉君が来ると、彼は工藤・池辺組に入ることになる。

3時ごろにゲレンデからあがる。
帰りは、老神温泉東明館の露天風呂に漬かって筋肉をほぐし(楢戸、青山)、ぎょうざの満州で舌鼓、飲める者はビールを飲み(池辺、青山)、談笑するというお決まりのコース。
スキー行の楽しみは、滑ることのほか、合間やアフターの他愛もないおしゃべりにある。
5時半ごろ、東明館を出発。池辺、青山の二人はビールの酔いで後部座席でぐっすり眠る中(申し訳ありません)、ひたすら楢戸君が安全運転。
途中で工藤君を下ろして、三鷹駅に戻ったのは8時ごろ。
わが家に着いたのは9時前。NHKのニュースは、明日12年ぶりに来日する韓国尹 錫悦(ユン・ソギョル)大統領のニュースを大きく報じていた。

振り返ってみると、スキーグループは、75歳を過ぎたころから、「80歳まで滑ろう」が合言葉だった。それが今年は80歳を3年も過ぎた。間にコロナが入り、人数も回数も減ったが、なんとか続いている。
今回滑ってみて、もう少し(2、3年)滑れそうだ、というのが全員の感想。
ただ、今シーズンは、急に温度が上がって、今回が最後か、もしかしたらもう一度チャンスがあるか否か、というところ。

いずれにせよ、高校の同級生が、83歳になっても一緒にスキーに行ってワイワイ楽しんでいる、というのがなんとも嬉しい。
そのことをお伝えしたくて、投稿します。

Re: 332歳の春スキー - 工藤

2023/03/18 (Sat) 22:17:01

「332歳の春スキー」へのRe
A組のスキー同好会(正式名称はありませんが)も長くなりました。散発的に
スキー同好の士がスキーを一緒していたのですが、池辺君のお世話で志賀の
朝日新聞の寮で合宿するようになって、本格的になりました。
楢戸君が「蜃気楼80歳記念号」に「八十歳のスキー行」を書いていますが、
それによると、今回の4人(楢戸・工藤・青山・池辺)の他に、小泉・小松
原・守屋・白井・伊藤・木村の各君が上がっていますので、合計10人が参
加していました。しかし、小松原・白井の両君はすでに身罷り、森屋・木村
の両君は病を得ており、スキーをやれそうなのは今や6人です。もし来シー
ズンにこの6人でスキー合宿ができればすばらしいいことです(コロナが終
息して)。
青山君が書いている老神温泉・東明館・ぎょーざの満州については、忘れら
れない桜の花見があります。2017.4.20.(木)に楢戸・工藤・小泉・青山の
4人で丸沼での春スキーの帰りの老神温泉は桜が満開だったのです。スキー
に行って、満開の桜に出会うのは、私の長いスキー歴でも最初で最後のこと
でしょう。老神温泉は沼田インターから18㎞で、片品渓谷の深い谷を見下ろ
す両岸にへばりついている温泉郷ですが、両岸にある巨木達は桜だったので
す(私は気が付いていなかった)。温泉旅館は渓谷を見張らせる造りなので、
満開の桜はそれは見事なものでした。

Re: 332歳の春スキー - 矢嶋

2023/03/18 (Sat) 17:19:14

 四君の元気さには驚嘆しました。青山・池辺・工藤君らは恐らく早朝6時~6時半に自宅を出ているんだろう。丸沼高原のスキーコースを10数回も滑りまくり、老神温泉で湯に浸かりビールを飲んでの休憩をしたとはいえ帰宅は21時ごろとなった筈、私にはとても真似はできないことです。楢戸君は往復をひとりで運転、いくらドライブ好きでもかなりのハードワークである。皆々83歳とは言えない若さですね。わが妻曰く「皆さん60歳代のからだですね!」と。
 今回は3月8日に続いての2回目のスキー行、雪が消えなければもう一回行きたいとか、今日は群馬県北部はまた降雪があったようです、いま一度のスキー行のチャンスは有りですよ。
 ”元気”のおすそ分け有難うございました。

阿部さんの桜の写真 - 矢嶋

2023/02/17 (Fri) 22:35:18

写真を趣味にしている人なら誰もが知っているかなりレベルの高い「風景写真」という写真雑誌があります。2023年3・4月号では「80歳台の桜」特集」として80歳台23名のベテランの作品が掲載されます。阿部さんは見開き1点と1Pずつ2点更に表紙の写真にも採用されているとのことです。一足先に素晴らしい写真でお花見をして見ませんか。発売は2月20日です。

阿部さんの写真展(1) - IKY(矢嶋)

2022/12/06 (Tue) 20:23:07

 阿部さんが出展の写真展の案内です。

写真展 「余韻 心深」
会 場:ポートレートギャラリー(四谷日本写真会館5F)
会 期:20231月5日(木)~1月11日(水)
    平日 10:00~18:00/土日祝 11:00~18:00(最終日のみ15:00まで)
入場料:無料

 風景写真のベテランの方々、一人一点全倍で展示,阿部さんの当番日は今のところ6日の予定とのことです。

Re: 阿部さんの写真展(1) - 矢嶋Mail

2023/01/09 (Mon) 12:49:16

私も6日に拝見してきました。ついでに六本木富士フィルムスクエアで開催されている「美しい風景写真100人展」と「風景写真Xtension展」へも。プロとセミプロ級の方々の写真百数十点をも一度に鑑賞するという一日でした。でも素晴らしい写真ばかりでちょっと辟易,雑な鑑賞になってしまい些か反省です。
 阿部さんの写真展は12日から同じ会場で「PSクラブPhoto Art展」が開かれます。12日11時会場集合で新年初の”永友散歩”が予定されています。これに合わせてお出でになれば散歩グループの級友達(青山さん・阿部さん・池辺さん・浦野さん・佐藤さん・土田さん・広西さん等)にも逢えますよ。

Re: 阿部さんの写真展(1) - 楢戸 守

2023/01/08 (Sun) 17:03:09

写真展などあまり見たことがなかったのですが、「風景写真」ということで見に行ってきました。
驚いたのは芸術絵画の様な風景写真で、こんな素晴らしい写真をどうやったら撮れるのだろうと思いました。
受付におられた方に、阿部さんの「祈り」と言う滝の写真について説明をお願いしましたが、難しそうなテクニックの話で私には全く理解できませんでした。
この阿部さんの写真は「風景写真誌2022年7・8月号入選作品」だそうで、展示されていた30点余り写真の中で、この種の「風景写真誌入選作品」は数点しかありませんでした。
しかし他の写真もこれまで見たことがない様な凄い芸術写真ばかりでした。
展示会場の「ポートレートギャラリー」は、JR中央線四谷駅徒歩1分の所にありますので、時間がありましたら鑑賞に行くことをお奨めします。

お礼 - 阿部和江Mail

2023/01/09 (Mon) 11:16:03

写真展にお越し下さったかた、ありがとうございました。楢戸さんからはご丁寧な感想をいただき恐縮です。芸術的とお褒め頂きましたが、プリント用紙と作風があっていないものがいくつかあり、私のも普通にしてもらった方が黒が締まり深みが出たのにと、残念な気持ちです。
この後、12日からPSクラブ展、17日からは秦野の写真展と、大忙しの新年です。
今年もよろしくお願いいたします。

初詣 - 楢戸 守

2023/01/03 (Tue) 20:01:48

皆さん、明けましておめでとうございます。
元旦に散歩がてら近くの井之頭公園の池畔にある弁天様に初詣に行きましたら、長い行列で諦めて帰ってきました。
仕方がないので、今日は久しぶりに原宿の明治神宮までお参りに行きましたら、神社の鳥居の前から大行列で参拝に1時間以上かかると言われて、遠くから頭だけ下げて帰ってきました。
こんなことでは今年はあまり良いことに恵まれそうもありませんね。
参拝に来ているのは若いグループ・カップルや家族連れが多く、コロナもあってあまり行くところがないのかなと思いました。
皆さんは初詣はどうされましたか。

コロナ第8波について - 工藤

2022/12/30 (Fri) 14:46:53

楢戸君宛のメールに加筆したものをUPします。

コロナ第8波について
人類と病原体(細菌・ウイルス)の歴史を考えてしまいます。人が生き残って
きた歴史は、病原体が弱毒化することと人の免疫の多様性のなかに病原体に勝てる
ものが必ずあったからです。戦いに勝ち残った人の子孫が現生の人類です。

WHOも日本政府も口には出しませんが、ワクチンのほかに、多様なコロナ株に感染
することによって獲得免疫の質を上げ、集団免疫を成立させたいという方向に踏み
出したのではないか、と私は思います。弱毒化が進んだ今、感染者数を増やすのは、
コロナ終息に向かうための一つの方法ではあります。
特効薬ができれば違う考え方もあり得ますがーー。

今、中国を含め世界はコロナ患者の全数把握は諦めています(簡略化と言っていま
すが)。日本ではリスクの低い人(高齢者・妊婦・既往症患者・以外)は自主検査
・自己管理で、感染の届け出義務もありません。発表される感染者数は「全数」で
はありませんし、今のところ「全数」を把握する統計手法もありません。
現在の死亡者の増加は、集団施設などにおける高齢者の集団感染が原因だ、と朝日
新聞は報じていますが、集団感染の実数は発表されていません。発表感染者数より
「全数」感染者数はかなり大きいと思われるので、死亡者数が増加していても致死
率(死亡者数÷感染者数)はそれほど高くはない(むしろ低くなっている)と思い
ます。(実数字がないので計算することは不可能ですし、いわゆる専門家の死亡者
数増加に対する見解は「なぜなのか分からない」です。)

では、われわれは今どうすべきなのか?自主検査を徹底して自分の及ぶ範囲でコロナ
をコントロールすることです。自主検査のための日本の検査キットは高すぎます(私
も使いましたが)。唾液で検査するものが@1800円ぐらい、鼻腔で検査するものが
@1300円ぐらいです。
12月10日の朝日新聞のコラム「世界発」によれば、香港では検査キットの無料配
布もあり、安いものは2香港ドル(35円)だそうで、各人50個ぐらいを在庫して
いるとのこと。要するに毎日自主検査して結果に応じて行動を自主コントロールして
いる、ということです。陰性を確認してから出勤し、夜はお互いに検査結果を見せ合
ってから飲みに行く等々。
朝日新聞は検査キットを安くするためのキャンペーンを張るべきです。
自主検査によるセルフコントロールは、コロナ終息への一つの道筋であり、人の主体
性を少しだけ取り戻せることにもなると思います。
(2022.12.29.)

コロナに明け暮れた2022年も間もなくおわります。
よいお年をお迎えくださいますようにーー。

Re: コロナ第8波について - 矢嶋

2022/12/30 (Fri) 20:01:44

 工藤君 感染された際の様子・対応をはじめコロナの分り易い話・解説など大変勉強になりました。有り難うございます。
 新型コロナは既に第八波に入っていることは確実で,高齢者の感染が増え,死者も引き続き増加傾向にあることがが懸念されます。感染しても軽症で済むとはいってもやはり怖いですね。WHOや政府はある程度の感染者数増加には目をつむって集団免疫を狙っているとのことですが,いまや町の中は無症状感染者がごろごろしている状況だと考えています。これから年末年始にかけて行動制限ない条件での人の移動・1月末春節には中国人の観光客がやって来る・人々の気がやや緩んだのか以前に比べて気軽に集まり食事・談笑することがおおくなっていることなどが気がかりです。今後の感染動向をしっかり見極めて自分自身の行動を自主管理して行かねばと思っています。まだまだ油断禁物です。
 多事多難の2022年もあと一日となりました。
皆さんよいお年をお迎え下さい。


家庭内隔離について(コロナ感染時) - 工藤

2022/12/27 (Tue) 00:04:26

家庭内隔離(コロナ感染時の)について
青山君が指摘した家庭内隔離については、青山君にはすでに個人メールで私が今回
やったことをお知らせしました。まず家庭内隔離はやりませんでした。やったことは、
①二重マスクをすること②アルコール系の消毒をきちんとやること③換気を行うこと、
の3点です。寝室はもともと別ですし、住空間に比較的余裕があることが必要かもしれ
ません。

自宅療養支援センターから送られてきた冊子によれば、家庭内隔離とはそれぞれが
個室に籠り、なるべく動線が交わらないようにしろ、と言っていますが、「なるべく」
が付く以上「隔離」ではありません。完全隔離は家庭内ではしょせんできないので、
ホテルなど別の場所を用意するすしかありませんが、これは自治体が用意してくれる
ようです。

そもそもコロナ感染はどのようにして起きるのか?①接触感染と②飛沫感染とがあります
が、どちらも粘膜にコロナウイルスが付着仕しておきます。①は手にウイルスがついても
皮膚からは感染しません。その手を口などの粘膜に持っていくので感染が起きます。②は
空気感染はなく飛沫を吸い込む(気管の粘膜に)ことで感染します。
家庭内感染もまったく同じことで起きるのです。
しょせん不完全な家庭内隔離でやったつもりになるよりも、感染の根本をつぶす方法を考
えて実行するほうが良いと思います。医療用マスクが手に入ればもっといいですね。アル
コール系のジェルはじゃぶじゃぶ使いましょう、大変有効です。問題は寒い中換気ができ
るかですが、住環境に応じて考えるしかありません。
(2022.12.27.)

Re: 家庭内隔離について(コロナ感染時) - 青山善充Mail

2022/12/28 (Wed) 17:39:25

工藤君、楢戸君の投稿。大変参考になりました。

要は、二重マスク、アルコール消毒、換気をしっかりやること。
家庭内で、完全な隔離は所詮無理。
完全隔離をやるとすれば、どこか別の場所に出ていくしかない。
罹った時は罹った時、と割り切る以外にはない、ということですね。

Re: 家庭内隔離について(コロナ感染時) - 楢戸 守

2022/12/27 (Tue) 11:45:11

コロナの家庭内隔離は中々難しいみたいですね。
今年2月の第6波で近所の長女宅ではこんなことが起きました。
一番上の男の子(大学生)が外でコロナに感染したのでしょう、発熱はなかったけれどコンコン咳をしていたそうです。間もなく長女が40℃近い高熱が出て近所のかかりつけの医院行ったらコロナであることがわかり、すぐ保健所に連絡が行きその日のうちに東京都から迎えの車が来て西新宿のホテルに隔離されてしまいました。
続いて双子の高校生の1人が発熱し、かかりつけの医院に電話したら家で安静にして寝ていなさいと言われました。更にもう1人の男の子とご主人が発熱しましたが、医院に連絡もしないで寝ていたそうです。
3人とも38℃位の高熱が2~3日続きましたが、間もなく熱も下がり普段通りの生活に戻ったと言っていました。
同じ家の中で暮らしていたら、食事・入浴・トイレなんか一緒ですし、マスクもしていなかったので「家庭内隔離」なんて実際は無理なんでしょうね。

工藤君の体験では発熱もせずノドが痛い程度だった様ですから普通の風邪と違わないと思いました。
コロナでは今でも毎日2~300人の方が亡くなっていますが、これはコロナウイルスで死んだのではなく、肺や心臓に重篤な持病を持った方や老衰した高齢者がコロナをきっかけに亡くなったのではないかと思います。
普通の風邪だってこの様な方々には、それをきっかけに命取りになる危険がありますから油断は禁物でしょうが、そうだからと言って「伝染症法第2類相当」などといって騒ぐのはどうかと思います。


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