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会津若松 いまむかし(5)

1:矢嶋壯吉:

2024/04/25 (Thu) 16:02:58

https://bbs5.fc2.com//bbs/img/_798300/798232/full/798232_1714028578.jpg 青山君からのメール 4/21(日)03:00

 池辺君、阿部さん、矢嶋君、楢戸君
池辺君の「ある町の百年 会津若松」、深い感動をもって拝読しました。池辺君は、今度わざわざパソコンに打ち込んでくれたのですね。ありがとうございました。
すでに阿部さん、矢嶋君、楢戸君が感想を寄せています。
私も以下書いてみます。
会津戦争から100年後、今からいえば56年前(1968年)に書かれた池辺君の文章は、今読んでも全く色褪せていません。丹念な事前調査、町を歩き回った印象、多くの人からの取材を踏まえ、とかく白虎隊一色になりがちな会津若松を多角的に捉え(最後の、漆器職人の話は印象的)、それを抑制的な筆致でまとめ上げていることによる、と思いました。やはり文章の専門家は違う、と感じました。
以下、それに刺激されて、池辺君が見た56年前と今回私がみた会津若松とで、異なっている点をいくつか、書いてみます。
● 会津若松は白虎隊一辺倒か
会津若松が白虎隊の町であることに変わりがありません。しかし、池辺君が書いているような、過度に白虎隊を観光の売りにしている、という印象を、私は今回受けませんでした。
池辺君が面白おかしく紹介している「飯盛山の土産物屋お抱えの観光ガイド」は見当たりませんでした。私たちも東山温泉に泊まりましたが、「売りものの芸者の白虎隊踊り」もなく、町を走るタクシーも「白虎隊タクシー」という名を冠してはいなかった、ように思います。それどころか、私たちが事前に買いたいと思って訪ねた「白虎隊最中」の店には、休業中という張り紙があり、閉店しているようでした。
白虎隊は、いまや遠い過去の歴史の一齣になったのかもしれません。

● 白虎隊士はなぜ自刃したか
これについては、長らく、飯盛山から見て城の方向に火の手が上がり、それを見て、鶴ヶ城が落城したと思い、もはやこれまでと自刃した、という説(落城誤認説)が有力でした。
文部省唱歌「白虎隊の歌」(明治37年)の三番
   残るは僅か十六士 一度後ろに立ち帰り
   主君の最後に会はばやと 飯盛山に攀じ登り
   見れば早くも城落ちて 焔は天を焦がしたり

や、今も歌われる「白虎隊」の歌の中の漢詩(作者は旧会津中学校の教師佐原盛純)の、

   南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
   痛哭涙を飲んで且つ彷徨す
   宗社滅びぬ我が事おわる
   十有九人腹を屠ってたおる

が、この考え方を助長したようです。
池辺君の文章も、「飯盛山にたどりついた二十人の少年たちは、そこで煙に包まれている城下を見た。落城か――二十人の少年たちは自刃の道を選んだのだ。」と、やや落城誤認説のようでもあります。
しかし、真実はどうであったか。鶴ヶ城の会津軍は、白虎隊が自刃した慶応4年(1868年)8月23日からさらに一か月もの間、勇敢に戦い続け、西軍軍使の「会津軍はよくもここまで戦った」という賞賛の声を聞いて、ようやく開城降伏した(9月22日)、というのが真実です。
少年たちがこの時落城と錯覚して自決したとする落城誤認説は、あまりにも彼らを子供扱いし、「お涙頂戴物語」にして観光に利用するものだ。それは、彼らへの侮辱であり、自決した真の原因は、別のところにある、との説(会津藩潔白証明説とでもいうべきもの)が、近時有力です。
飯沼一元氏が出した『白虎隊士飯沼貞吉の回生』という自費出版の本(V2ソリューション社、2012年)がそれです。著者は、白虎隊士唯一の生き残り飯沼貞吉(後半生は貞雄と称していた)の直系の孫にあたります。
この本は、平成20年に飯沼家で発見された飯沼貞吉自筆の「白虎隊顛末記」をもとに、「鶴ヶ城は古の名将蒲生氏郷が築いた名城だから簡単に落ちるはずはない。しかし、十重二十重に取り囲まれている鶴ヶ城へいかに入城するか。隊士の間で甲論乙駁の後、もし敵に捕らえられて縄目の恥辱を受けることになれば、上は君に対して何の面目やある。下は祖先に対して何の申訳やある。如かず、潔くここに自刃し、武士の本分を明らかにするにあり、ということになった。
ここに武士の本分とは、会津藩は天皇に対して至誠を尽くした。朝敵・国賊呼ばわりされる理由はない。ここに抗議を込めて自刃し、もってその潔白を証明するのだ。」と書いています。(この本の表紙をPDFで送ります)(*投稿者註:このPDFは省略)
著者の飯沼一元氏は、2013年3月28日の日本経済新聞夕刊に「白虎隊生き残りの真実」というエッセーを投稿しています。(この新聞の切り抜きも、PDFでお送りします)(*投稿者註:画像ファイルとして添付しました,拡大してご覧ください)
平成23年に、飯盛山の自刃跡地近くに、この説に基づく説明板が建てられ、私も見てきました。

● 旧会津藩士と西南戦争
池辺君の文章に、「明治十年の西南戦役には、薩長中心の新政府に反感を持つ旧会津藩士が三百人も西郷軍に投じている。」とあります。
それはその通りですが、政府軍に従軍した旧会津藩士もいました。その一人、旧会津藩家老だった山川浩(大蔵)は、戊辰戦争では賊軍とされ、いま西南戦争では官軍として参戦し、かつての仲間が大勢加わっている薩摩軍と戦わなければならなくなった複雑な気持ちを
   薩摩人みよや東の大丈夫が さげ佩く太刀の鋭きか鈍きか

と詠んでいます。この人は、初代帝国大学総長山川健次郎や岩倉米欧使節団(明治4年に日本を出発)に加わった女子留学生山川捨松(のちの大山巌夫人)の兄にあたります。
話は飛びますが、その岩倉米欧使節団の副使・伊藤博文は、最初の寄港地サンフランシスコにおける大歓迎会で、日本はたった一年で封建制度から近代国家へと大転換した。しかも「一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さず」にそれを成し遂げた、という大演説(日本の国旗を昇る朝日だの説明をしたことから「日の丸演説」と呼ばれる)をぶちました。
しかし、それはその五か月前に断行された廃藩置県のことだけを念頭に置いたものでした。
歴史の語るところは、最後の会津藩主松平容保が京都守護職を命じられた1862年ごろから幕末までに、さらにまた、維新から西南戦争(1877年)までに、何千、何万という有為な人材どうしの、血を血で洗う抗争(犠牲)の上に日本の近代化は成し遂げられたのです。
以上、池辺君の名文に刺激されて、饒舌な文章を書きました。
失礼をば許されよ。4月20日 青山

楢戸君からのメール4/21(日)09:29 

楢戸です。
青山さんもいろんなことをよく知っているので驚きました。
あんな本や新聞の切り抜きまで持っているとは・・・。
旅行する時はいつもあんな風にいろいろ調べて行くんでしょうか。私なんかその時の思いつきと気の向くままに宿の予約もせずに出かけます。食事は地元の食堂かコンビニ、宿はその時空いているビジネスホテル。若い頃はトイレのある公園などで車泊かテント泊、食事は空き地や河原で自炊していました。
定年後も夏は北海道を2~3週かけてこんなやり方で一巡したりしていました。お金がないこともありましたが、大昔の山歩きのクセなんだと思います。

池辺君からのメール4/21(日)14:27

青山さま 皆々さま
 私が29歳のときに書いた記事をお読みのうえ、皆さんがさらにいろいろ書いてくだ
さり、うれしいことでした。小さい活字の文章を苦労してパソコンに打ち直した甲斐
がありました。
 ことに、青山さん、ありがとうございます。白虎隊の一員として自決を図りながら
たまたま生き残ってしまった飯山貞吉の孫の飯山一元さんが、2013年に日経新聞に発
表した文章に触れ、感嘆、納得しました。
 私は、50年前、白虎隊が観光に利用されすぎていることがちょっと不愉快で、揶揄
するような描写をしましたが、いま、飯盛山にみやげ物屋ガイドの姿が見られず、史
実に基づく説明板もできているとのこと、ほっとしました。
 そういえば、10年余り前、ロータリークラブの取材で会津を訪れたとき、すでに白
虎隊一色ではなくなっている印象でした。大体、いま会津若松には松平藩にゆかりの
ある人たち、どのくらい住んでいるのでしょうね。あの町ではついぞ松平藩士の末裔
という人には会ったことがない……、いやいや、50年前、飯山貞吉の甥に会って話を
聞いているんだなあ。どうやって探し当てたのだっけ、思い出せないのが情けない……。
(終わり) 
2:工藤 :

2024/04/27 (Sat) 16:04:21

工藤です。
このメールのやり取りは、私もCCで見ていたのですが、感想などは送りませんでした。青山君から感想など書いてはどうか、と言われたのですが、「会津若松に特段の思いがないから書くことがない」と言っていました。BBSに矢嶋君がUPしてくれて、改めて読み返した結果を以下に書いてみます。

「白虎隊生き残りの真実」(日経新聞の記事)につて

飯沼定吉氏が長州で庇護されていたとの事実は、すばらしい。(会津に戻されたらどうなっていたことか?)定吉氏が「生き残ったからには、社会のために生きよう」と電信敷設にまい進したのも、すばらしい。例えば私が名前を知っている会津人に山川健次郎がいますが、彼は初代東大総長を務めました。明治維新を支えた人たちと言えるでしょう。
福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、白虎隊に対してではありませんがこう述べています。「武士が忠臣として討ち死にしても文明を益することにならず。命の捨て所を間違えている。」と。定吉氏がこれを読んでいることはほぼ確実です。そのわけは以下の通り。「学問のすすめ」の出版部数は400万部です(慶応・福沢研究所による推計値)。当時の日本の総人口は4000万人で、女子供を除いた男性の内の識字層はほぼ100%読んでいると推測されている(当時は回し読みの習慣もあったから)。定吉氏は、「文明に益するところに生きよう」としたのでしょう。こうした明治人の集積があの明治維新を作り上げたのでしょう。
トインビーは日本の歴史に言及し、鎖国から明治維新を高く評価しています。その理由は日本が西欧列強に植民地化されなかった唯一の国だからです。二次大戦後も植民地化されなかった日本・という事実が、あのベトナム戦争の結果にまで続いている、とも言っています。
福沢諭吉の全著作と生き様は、植民地化されたくない・それをどう防ぐかが原点だと私は思います(こう言い切る福沢研究者はいませんが)。福沢は「富国強兵」にも大賛成でした。
明治維新で偉くなったのは薩長ですが、みんなが一生懸命だったことは(白虎隊まで含めて)、間違いないことだ、と思います。

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