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会津若松 いまむかし(3) - 矢嶋壯吉Mail

2024/04/24 (Wed) 18:10:52

 池辺君からのメール 4/19(金)23:26

皆々さま
 池辺です。草野球の那須合宿から帰ってメールを開くと、青山、矢嶋、楢戸の諸君が、それぞれに会津若松の思い出をつづっていたので、私もそれにつづくことにしました。
私が初めて訪ねたのは昭和43年(1968)の秋でした。この年の10月22日に結婚式を挙げ、新婚旅行から帰るとすぐ、「ある町の百年」という連載企画の取材で会津若松の取材に行っています。その時の記事を50余年振りに読み返して、いまも通じる部分がかなりあると思いましたので、皆さんに読んでいただくべくパソコンに打ち込み、添付の形でお送りすることにしました。かなり長いので、暇なときにお読みいただければ幸いです。
定年退職後は、町会の旅行、ロータリークラブの取材などで再訪していますが、市街地の雰囲気はあまり変わっていないようですね。乾物愛好者の私は、身欠きニシンや干鱈がいまもよく市民に食べられているのに興味をそそられました。その昔は、新潟から阿賀野川を経由して運び込まれた食材でしょうが、なんとそれらを使った料理が多くの喫茶店で出されるのでビックリしました。味わいが京都風なので、幕末、松平藩が京都守護職の役目を務めさせられ、かの地でその味を知った影響かもしれない、などと空想したことがあります。
戊辰戦争で敗れた松平藩は、明治3年、斗南に移されました。私の書いた記事によると、2800家族1万人が、いまの下北半島に移住して、とんでもなく悲惨な生活を強いられています。1994(平成6)年、私は司馬遼太郎の『街道をゆく・北のまほろば』の取材旅行の折、杉山むつ市長ほか何人かの会津藩士の末裔に会っていますが、明治4年の廃藩置県後は多くの旧藩士が斗南を去り、残ったのは少なかったという印象を受けています。会津に戻ったのはどのくらいの数であったか。縁があった人々だけだったのではないでしょうか。
以上、私の会津若松に関する思い出です。

●「ある町の百年 会津若松」

会津若松は白虎隊の町である。戊辰戦役のうらみがいまも残っているから、うかつに薩摩生まれ、長州生まれなどと名乗ろうものなら……と聞かされて出かけた。会津盆地の中心にあるこの地方都市は、いかにも白虎隊の故地らしいたたずまいの町である。白壁の土蔵が至る所に残っている。
町割りはほぼ将棋盤の目のように整然としているが、十字路は完全な十字路ではなく、独特の鍵十字である。一直線の南北道路に対して、東西の道路が段違いに交差している。城下での市街戦に備えてわざわざ見通しがきかないようにつくってあるのだという。
藩政の名残は街路ばかりではない。この町を支える伝統産業、酒造と漆器製造もまた藩政時代におこされたものである。観光客の目に快い多くの土蔵は、その工場であり、倉庫なのだ。そんな会津若松について、功成り名遂げて、ときどき故郷に帰るだけの会津っぽたちは無念がる。
「会津は取り残されてしまった。過去の遺産を食いつなぐだけで百年を経てしまった。百年前の戦争の影響だなあ」
 はたしてそうなのか。百年前にさかのぼろう。
当時、会津地方は、徳川幕府の親藩大名松平藩(二十三万石)の支配下にあった。松平藩は、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)以来、比較的英明な藩主に恵まれたが、ことに天明元年(一七八一)家老となった田中玄宰(はるなか)の藩政改革の効果が大きく、東北地方きっての雄藩の地位を保っていた。玄宰は、藩財政建て直しの手だてとして、いわゆる会津漆器の生産を奨励し江戸表などに送り出した。また灘から杜氏をよんで会津清酒の品質向上を図りもした。一方、藩校日新館をつくって人材の育成にも力を注いだ結果、幕末には、薩摩、長州に対抗しうる精強な軍事力を持つ幕府方唯一の藩と目されるようになっていた。それが悲劇の元といえば言えよう。
文久二年(一八六二)、九代藩主松平容保(かたもり)が、京都守護職の役目を引き受けさせられてしまった。藩士一千人をひきつれ京に乗り込んだ容保は、以後ひたすら、尊皇討幕運動の中心地京都の治安維持に当たったのである。討幕派の志士たちを切りまくった新撰組もその配下だった。
慶応四年(一八六八)正月、大政奉還後間もない緊張した局面で、会津藩を中心とする幕府軍と薩長軍とがぶつかった。鳥羽、伏見の戦いである。以後、会津藩は「朝敵」となり、西軍(会津では官軍、賊軍とは決して言わず、西軍、東軍と呼ぶ)の攻撃目標となった。
八月二十二日、西軍が会津盆地に攻め入った。白虎隊の悲劇はこのときに起こった。白虎隊というのは、会津藩の十六、七歳の藩士で編成されたいわば予備軍、一隊約五十人で六隊あった。このうち士中二番隊の三十七人が戸ノ口原に出て東軍と銃火を交えたのだが、敗れ、翌二十三日退却することにした。若松の鶴ヶ城まであと四㌔ほどの飯盛山にようやくたどりついた二十人の少年たちは、そこで煙に包まれている城下を見た。落城か¬¬――二十人の少年たちは自刃の道を選んだのだ。
いま、その飯盛山にこのとき死んだ十九人の墓と、偶然助けられて生きのびた飯沼貞吉の墓がある。年間百三十万人からのお客さんが参拝する観光地になっている。観光バスを降りた団体客は、二百余段の石段をわざわざ歩くこともなく、ベルトコンベアーで運び上げられる。上ではみやげもの屋のお抱えガイドが待ち受けていて、ひとわたり案内して回る。
「ちょっこらそっちを見てこらんしょ」
会津弁の名調子が交じるたびごと、お客が笑いくずれる。飯沼貞吉の墓前では、「この人が生き残って話を伝えてくれたおかげで、わたしら商売になってるんス」といった調子で、最後はみやげもの屋に導くわけだ。ガイドは売り子に早変わり。白虎隊人形の卸屋が、「シーズン中は一日百個ずつ納めても間に合わない」と半ばあきれている。そのみやげもの屋の店主、飯盛正康さん(59)は、市内の高額所得者ベストテンの上位にランクされているとか。「先祖の善意が子孫にしあわせをもたらしたということでしょうね」と、多少は照れたような面持ちだ。
 西軍の許可が出ず一冬ほったらかしにされた十九人の遺体を、正康さんの祖父母らが仮埋葬したいきさつがあるのである。
 そんな飯盛山の現状について眉をひそめる向きもある。飯沼貞吉の甥に当たる飯沼一省・都市計画教会会長(77)は、「観光の道具にされているようで……」と、遺族の気持ちを語る。
「伯父の貞吉が首の傷を隠し、白虎隊についてあまり話したがらなかったのは確かだが、ひとり生き残ったため郷里にいれられず、仙台で寂しく一生を終わったなどと話をおもしろくして伝えられては困る。故郷に生活の根拠を持たぬ役人として任地の仙台にいたまでのことだ」と伝説を訂正する。だが、市内の東山温泉の売りものは芸者の白虎隊踊りというご時世なのである。
 鶴ヶ城を巡る東軍と西軍の攻防は、白虎隊の自刃後もつづき、西軍の囲みを破って城内に入ろうとする東軍に、なぎなたで武装した娘子軍(じょうしぐん)といわれる女性隊が加わり奮戦、西軍の猛者もたじたじとさせるすさまじさだった。会津藩が降伏したのは籠城一か月後の九月二十二日。この間女子二百三十余人を含めて三千人余りが戦死、あるいは自刃して果てた。
 降伏後謹慎させられていた藩士ら二千八百家族の約一万人が、松平家の斗南(となみ=いまの青森県下北半島一帯)移封とともに、つぎつぎ移住していったのは、明治三年(一八七〇)に入ってからである。不毛の辺地での生活は悲惨そのもので、明治四年の廃藩置県後は多くの人が離散していった。当時、会津出身者は、薩長閥の強い官界に入っても出世の望みはなく、自然、教育界、宗教界に進むものが多かった。のち東京帝大総長となった山川健次郎、キリスト教伝道の山口鹿三らがその代表である。夏目漱石の『坊っちゃん』に登場する会津っぽの数学教師山嵐もそんな一人であったに違いない。
 明治十年の西南戦役には、薩長中心の新政府に反感を持つ旧会津藩士が三百人も西郷軍に投じている。明治十五年、薩摩出身の三島通庸福島県令が、会津若松を中心に山県、栃木、新潟の三方面を結ぶ三方道路(延長二百八㌔)建設を強行したときに起こった福島事件にしても、自由民権の裏に戊辰戦争の恨みがこもっていたと言われる。そんなところから「怨念の町・会津若松」のイメージがつくられていったのだろう。
 会津若松市立図書館の大村武一館長(60)は、山口県萩市の松下村塾のすぐ近くに生まれ育った生粋の長州人である。十三年前、山口県から赴任してきたときの歓迎会で「乞食と口をきいても、薩長とは口をきくな」というあいさつを受けたと苦笑する。いまに残る恨みというよりは、東北人らしいユーモアと解すべきなのかもしれない。
「だが会津っぽよ、おごるな。敗軍の名誉に酔いしれてはいないか」と、この長州人は厳しい批判を投げ返すのだ。
 会津の「賊軍コンプレックス」については、昭和三年(一九二八)、松平容保の孫の節さんが、秩父宮勢津子妃として皇族となったときにすっかり消えたと、多くの人が語った。が、東京、青森などに残る会津会は、その「賊軍コンプレックス」の余映だろうか。東京の会津会は、福島県人会よりもずっと盛んで、年に二回ずつ会合している。
 会津っぽのイメージというと、当の会津人たちは、実直で、気が利かず、すぐ腹を立てるが人を陥れることはできないといったタイプの人間を思い浮かべるようだ。その意味で今回出会ったもっとも会津っぽらしい会津っぽは、東京に住んでいた。明治二十七年生まれ、七十四歳になる三宅直一さんというこの老歯科医師は、戊辰戦役のとき十五歳だった母すてさんから、難儀話を聞かされ、聞かされて育った。かつては高禄の家柄だったが、そのころはとんでもない貧乏暮らし、明治三十六、七年の大冷害のときには布施米をもらう資格のある極貧家庭になっていた。だが。すてさんは「施し米で直一を育てたとあっては、母の一分が立たぬ」と、施しを拒絶した。幼い直一少年が発奮したのは当然だろう。母を楽にしてあげたいの一心で、十五のとき故郷を出て、函館、東京で歯科医の書生、見習い。猛勉強の末、東京・日本橋に開業する身となった。
「どんぶり勘定ですみ、だれにも頭を下げないですむ医者になってよかった」
 頑固一徹、誇り高いこの会津っぽは、豪快に笑い、そして母を語るときははらはらと涙を落とすのである。
 この三宅老の育った時期は、若松の町にとっても大きな転換期だった。明治三十三年四月県下で初めて市政施行、同年七月岩越鉄道(いまの磐越西線)郡山―若松間が開通、三十四年電灯がついた。だが、繊維工業などを中心に起こりかけた産業革命は失敗し、生産性の低い在来産業もバタバタつぶれていった。このため、市経済の発展策として軍隊誘致の機運が高まり、明治四十一年、歩兵第六十五連隊が設置されたのだ。白虎隊は、国難に殉ずる軍人精神のカガミとして利用された。どこの学校でも白虎隊の剣舞をやり、女子はなぎなたの訓練があったりした。
 戦後の昭和三十年、若松市は周辺の七か村を合併、北九州の若松と紛らわしくないように会津若松市となった。現在、富士通など二、三の近代工場があるだけで、あとは酒造、漆器製造という伝統的な製造業に支えられているこの町に、自衛隊を誘致しして、再び軍都にしようという空気が、商業界の一部にある。それに対して、四十三年春市長になったばかりの高瀬喜左衛門氏(47)は、
「自衛隊誘致とか、観光開発とか、寄生虫みたいに人のふところを狙うのは、あんまり好きでねんだな」
 と、会津なまりで語った。
 高瀬市長は、漆器問屋の老舗白木屋の第十四代当主、京大で物理を学び、会津短大などの教壇に立ったこともあるインテリで、革新系の支持を受けている。
「会津盆地という金魚鉢の中でコイを飼えなかったのは無理もないことで、近代工業が栄える条件はなかった。経済的尺度だけで測れば停滞しているかも知れないが、この静かな町をわざわざ喧噪の町にすることはない。よそから遊びに来た人も静かになるような観光都市にしたい。やたら白虎隊、白虎隊と口にしたくないな」と、しごくおっとりしている。あえて波乱を求めぬ会津町人道に徹しきっているのかも知れない。
 会津若松の町を歩けば、とにかく白虎隊、白虎隊だ。白虎剣士会というスポーツ少年団があり、町には白虎タクシーが走り回っている。だが、鶴ヶ城址に鉄筋コンクリートの天守閣が再建され(昭和四十年)、飯盛山が大にぎわいしだすとともに、市民の足はかえって城址からも飯盛山からも遠のいてしまったようだ。藩校日新館の流れをくむといわれる会津高校には、剣舞委員会というクラブがあって、春秋一回ずつ飯盛山で剣舞を奉納しているが、その委員長でさえ、ふだんは飯盛山に足を向ける気にならないというのである。白虎隊はもはや歴史的事実でしかない。
 ここで、会津若松の町を、静かに支えつづけてきた人たちに光をあてよう。薄暗い土蔵の中にすわりつづけてきた漆器製造の人たちだ。
 市内の漆器製造業者は約五百軒、従業者数三千五百人、年産三十五億円で日本一の生産額を誇る。卸、小売りなど関連業を含めると、人口十万の同市の人間の三分の一が漆器関係だろうとまで言われる。
 会津漆器の歴史は古く、平安時代にさかのぼれるのではないかとされる。産業的な意図から生産を奨励されたのは十六世紀末の蒲生氏郷時代からで、産地が形成されたのは流通経済の発達した江戸時代初期。十八世紀中ごろには、松平藩領内の漆木は約百八十万本あったという記録が残っている。家老田中玄宰は京都から蒔絵師をよんで、製品の質を高める努力をした。以来、漆器は、外国にも輸出される会津の貴重な外貨獲得産品となった。もっとも第二次大戦後は、プラスチック漆器、化学塗料吹き付け漆器の比重がまして、伝統の木製漆器の製造は二、三割だ。原料漆も中国からの輸入品になった。
 生産は分業化している。原型をつくる木地師は、お椀などをつくる丸物木地師と、重箱、お盆の類をつくる板物木地師に分かれている。下地屋は、塗りがひび割れしないように下地をととのえて塗師に回す。塗りも丸物と板物に分かれていて、それぞれ中塗り、上塗りの工程がある。最後の仕上げが蒔絵師の仕事、金粉をまいたり、螺鈿(らでん)を埋めこんだりして絵をかくのだ。
 漆は乾燥のさせ方が微妙なので、温度、湿度を一定に保ちやすく、しかもほこりが入りにくい土蔵の中で作業を行う。小さな窓の下の土間にあぐらをかいて長時間コンをつめてする仕事だ。
 四十三年夏会津を訪れた皇太子ご夫妻に仕事ぶりをお見せする栄に浴したという蒔絵師の金川秀吉さん(60)は、遠い目つきでこう半生を振りかえった。
「高等小学校を出てすぐから、この仕事に入った。当時は大体十二時間労働で、朝七時から夜九時まで仕事をするようなこともあった。身体にいいわけがありません。兵隊検査でも、漆器業界からは甲種合格なんて、めったに出ませんでした。土蔵の外の世界ともほとんど関わりなく、すわりづめで過ごしてしまったんですなあ」
 会津若松の百年の裏側に、こういう人たちがどれほどたくさんいたことだろうか。

《あし》上野から東北本線、磐越西線経由の急行で四~五時間、会津若松下車。千五百二十円。特急(三時間三十五分)も一本ある。
《やど》東山温泉に三十三軒、芦ノ牧温泉に二十一軒、市街地に約百軒。千五百円~四千五百円。十二月~三月は冬季料金で二割引き。
《あじ》「花春」「末広」など地酒が二十余銘柄。わらび、ぜんまい、きのこの漬け物など山菜、川魚料理。身知らず柿。みやげに漆器、桐げたなど。

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