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会津若松 いまむかし(1)

1:矢嶋壯吉:

2024/04/24 (Wed) 12:26:43

会津若松にお孫さん一家と旅した青山君の旅行記から始まった(青山・阿部・池辺・楢戸・矢嶋)の5人が4月13日(土)~21日(日)の1週間余りで取り交わしたメールの数々を紹介します。
 池辺君と青山君の蘊蓄ある会津若松についての今昔話は大変面白く貴重な資料でもあり他の級友達にも読んで貰ったら好いなと思い数回に分けて投稿することにしました。なお私信であるメールの公表することについては全員の了解を得ています。

 まずは楢戸君からのメール 4/13(土) 08:04

青山さん 会津若松旅行はいかがでしたか。
東北旅行にはよく出かけますが、会津盆地方面には交通が意外に不便なので中々行く 機会がありません。
母の姉が会津若松の漆器屋さんに嫁いでいたので、中学生の頃従兄弟に会いに行き夏 休みに1週間程泊まったことがありました。旧陸軍の軍人だった伯父さんが鶴ヶ城や白虎隊で有名な飯盛山などを案内してくれた 思い出があります。
京都に似た古い街並みが今でも残っていると思いますので、一度ゆっくりと歩いてみたいと思っています。

青山君からのメール 4/16(火)00:11 

楢戸君、皆さん
楢戸君に催促された、会津旅行の印象記です。ご笑覧ください。
楢戸君は昔会津に滞在したこともある由、会津の風土についてどんな印象をお持ちか、聞かせていただければ、幸いです。
● 4月5日(金)6日(土)に、孫一家と会津若松に一泊旅行してきました(一行5名)。
郡山まで東北新幹線、そこから磐越西線に乗り換えて会津若松まで、約3時間です。
会津は、私の郷里の信州高遠と連携協定(姉妹都市)をしており、前から一度は、と思っていた町です。高遠が会津と姉妹都市になった理由は、次の通り。
二代将軍徳川秀忠の庶子(落胤)で高遠藩に預けられ、そこで育った保科正之が、後に兄家光に仕え、その厚遇を得て、会津23万石に移封されて初代会津藩主となり、藩祖として藩政の基礎を築いたこと、に由来します。
会津民謡に「小原庄助さん何で身上潰した。朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上潰した」という一節がありますが、この小原庄助さんという人物は、保科正之の会津移封に従って、高遠から会津に赴いた豪農のひとり、と言われています。高遠には、小原という地名が残っており、そこで庄屋のようなことをやっていたようです。
保科正之は生涯高遠を思い、晩年、その夢がかなって高遠に帰るにあたり、その期待を、
  「見ねばこそさぞや景色の変わるらめ六十路になりて帰る故郷」
と詠んでいます。

● さて、会津若松は、何と言っても、戊辰戦争に続く会津戦争(1868年)の舞台です。
私の若い頃の友人に会津出身の男(会津ッポ)がおり、「会津では先の大戦といえば、太平洋戦争ではなく、会津戦争だ」と言っていました。融通が利かない頑固者でした。私は、彼の人となりの一端は、会津の教育に負うところが大きいと思っていました。

会津若松駅に着くなり、白虎隊士の像に迎えられました。輝子の歌、
  「駅前の白虎隊士像に迎えらる兄は弟の肩に手を置く」。

● 1日目は、鶴ヶ城、飯盛山を見て、東山温泉に泊まりました。
数年前の大河ドラマ「八重の桜」に出てきた様々なシーンを思い出しました。
鶴ヶ城は、会津戦争で焼け落ちたのを戦後復元したものです。松本城などと比べて、階段の幅も広く勾配も緩やかでしたが、輝子と次男の妻は敬遠し、私と次男、孫(小4)の三人で登りました。その時の輝子の歌、
  「少年の天守閣より手を振るを車椅子より吾は見上ぐる」。

飯盛山は、白虎隊自刃の地。白虎隊とは、16歳・17歳の少年で編成された会津藩予備兵部隊340名程度。ほかに、朱雀隊(18歳~35歳)、青龍隊(36裁~49歳)、玄武隊(50歳以上)があり、主流は、青龍隊、玄武隊。
白虎隊はあくまでも予備兵部隊であったが、士中二番隊と呼ばれた42名が国境の戸の口原の戦いに参戦。しかし、官軍の近代兵器を備えた猛攻に多くは討ち死に、20名が飯盛山に逃れ、そこで自決したのであった。1名は後に奇跡的によみがえった。
飯盛山には、急勾配の「歩く歩道」が設けられており、それに這いつくばるような格好で、「自刃の跡地」まで登りました。南向きの斜面には墓地のほかに様々な記念碑が立っていました。遥か南に目を凝らせば、確かに、鶴ヶ城の天守が見えました。輝子の歌、
  「帰り来ん白虎隊士をひたに待つ母の心は昔も今も」。
近くに「さざえ堂」と呼ばれるけったいな建物もあった(お堂だが、形がさざえの殻のように楕円形に渦巻いた建物)。

東山温泉は、古くからの有名な保養地。与謝野晶子や竹久夢二の歌碑等もありました。私たちが泊ったのは、ネットで探した「大江戸温泉物語東山グランドホテル」でしたが、すでに廃業した温泉宿(湯治場)があちこちに見られ、我々がスキーの帰りに立ち寄ったあの老神温泉郷を思い出しました。

● 2日目は、武家屋敷跡(家老西郷頼母の邸宅跡)を見て、七日町通りの古い町並みを歩く、というお決まりのコースを辿りました。
藩校「日新館」には、時間の関係で行けなかった。
武家屋敷に陳列してある数々の調度品は、実際の生活をまざまざと想像させて、興味がつきませんでした。
豪壮な邸の中に凄惨なシーンを再現したひと間がありました。家老西郷頼母の妻女家族が、女子供は足手まといになってはならぬ、と30数名一緒に自決した場面を人形で再現した、逆さ屏風を張り巡らした部屋です。思わず息をのみました。
長い歴史の中で見れば、「何と早まった判断か」、という見方もないとは言えませんが、「死して志を残す」会津の魂を見た思いです。
幼少の頃からこのような会津戦争の話を聞かされて育てば、「会津ッポ」の良い意味での覚悟や反骨精神、悪い意味では非妥協的・斜に構えた性格も理解できるような気がしました。
七日町通りは、かつての目抜き通り。ところどころシャッターが閉まったところはあるものの、浦野君が涎を垂らしそうな明治・大正・昭和期の建物が立ち並び、それが生活の一部として使われていました。私たちは、その通りを一時間近く、ブラブラ散策して、お土産物など買って歩きました。
その一画に野口英世がやけどの治療を受けた医院が残っており、「野口英世青春館」の展示が面白かった。
以上です。長々と、失礼しました。4月15日 

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